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【感想】ポエム(笑)から始める『月曜日の友達』

月曜日の友達 1 (ビッグコミックス)

 

 

『月曜日の友達』はどこをとっても独特な空気感でクセのある作品だ。

その奇妙な魅力は巧妙に構築されたルールの上で成り立っているのだが、他の青春漫画ではあまり見られないその仕組みを探り、作者がこの漫画で一番やりたかったこと、表現したかったものを考察していきたいと思う。

 

<この記事の品書>

  • 他の青春漫画とはちょっと違う3つのポイント
  • そもそもなぜこのような構造になっているのか
  • 作者が一番表現したかったものとは

 

他の青春漫画とはちょっと違う3つのポイント

1.オノマトペ

 オノマトペとは音を文字化したものである。
「ゴクゴク」「ドカッバキッ」「ザアアアアア」のようなものがオノマトペであり、漫画では当たり前のように使用される演出のひとつだ。
しかし『月曜日の友達』では殆ど見ることはない。

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 普通ならば「ミーンミンミン」「ジワジワ」と「書いてしまう」であろう場面。

 ない。音がひとつもないのである。 

 かろうじて水谷茜(みずたにあかね)のセリフで蝉の声を知ることができる、本作を特徴付ける代表的なシーンだ。

  『月曜日の友達』にはこういったコマがいくつも登場する。

 「オノマトペを書かない」は本作のルールのひとつにある。例えば蝉は「ミンミン」と鳴くのは、実は私たちの固定観念であり、書かないことで「蝉の鳴き声」の想像力を促す狙いがある。

 詩人の中原中也がブランコの揺れる音を「ゆあーんゆよーんゆやゆよん」と表現したのと同じように、ある人には蝉の声が「ヴィーヴィー」と聞こえるかもしれないし「ぴぃぱるららら」と聞こえるかもしれない。読者が聞こえたように聞こえた音、その想像力こそが正しいのだ。音の部分を委ね、読者の想像力を駆り立てることによって、シーンへの没入感に繋がる仕組みになっているわけだ。

 また、オノマトペがない為に場面のわかりづらさが起きないよう、上のコマであれば上部に空間を作ることで、蝉の声のほか、太陽の日差し、熱気、夏特有の突き抜ける空など読者の想像を手助けする。演出や誘導を巧みに配置することで読者を導いてくれているのだ。

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 夜の学校。プールに落ちる二人。飛び上がる飛沫。衣服から逃げ出す空気。弾ける気泡。
確かに鳴っているであろう無数のオノマトペは、無音の表現と左側の大きな空間でもって秘密事の神秘性を高めている。

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 全編を通して作者は委ねる。どのような音なのか。どのような音だったのか。私たちは確かにソレを聞いたことがあるし、あった。しかし実は一人一人違っていたのかもしれない。

 オノマトペを想像しながら読むと本作はより違った印象を見せてくれるだろう。

 

2.写真的表現

 オノマトペ以外に「効果線がない」のも特徴的な点だ。効果線とは動作や感情を視覚的に表現する描線のこと。

f:id:inthefullmoon:20180830150536j:image設楽清人 著『忍ぶな!チヨちゃん』1巻45P参照

 『月曜日の友達』は他の漫画と比べて、瞬間々々を切り取って写真に収めたようなコマが多い。

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 作者が思い出や記憶を断片的なものとして捉え、それを作品に反映しているからではないかと思う。青春の刹那な輝きと、淡々とした日常の両方にマッチした表現方法だ。

 映画の手法にもあるように、私たちはスローモーション映像に繊細さを感じる傾向にある。フツウの出来事であったものが一瞬の連続として認識すると、隠されていた美しさが垣間見えるようになる。『月曜日の友達』はそのキラキラと輝くものを丁寧に描く手法をとっている。幾分かの誇張はあるものの、ハッとさせられる描写が随所にあるのを感じ取れるはずだ。

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 瞳に写像が映っている写真的表現と、それらを「描く・描かない」漫画的表現が相互していて、一コマの煌めきを鮮やかに彩る。

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 瞬間とは普段気づかない。しかし私たちはその瞬間たちを「きれいなもの」だと知っている。作者は改めてその「きれいなもの」を作品内で浮かび上がらせてくれている。これが爽やかな心地良さと少しの切なさを読後感にもたらしてくれるのだ。 たくさんの瞬間たちに是非一度目を止めて見てほしい。

 

3.セリフ

 最後はコレ。

 『月曜日の友達』を語る上で避けて通れない「クセ」の要素。

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 新聞の文化欄にある詩のような文。

 セリフが理由で本作を読むのを止めた人はいるだろう。演劇のような主人公の言葉に、生理的に無理だったり嫌悪感すら抱いた人もいるかもしれない*1

 糸井重里ですら帯で「大人びたセリフをしゃべられて、なんだか小癪なマンガだと思った」と言ってるくらい(もちろんそのあと肯定するんだけれど)。とにかくクドい。
しかし読み進めるとすぐに気付く。彼女はただどこまでもまっすぐな女の子なのだ。

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 水谷茜の詩の一片のようなセリフたちは作品の最後まで一貫している。最終話で言葉遣いが直って、大人になりました的着地だとかそういう安っぽいジュブナイルではない。寧ろ最後まで彼女は悩みつつも胸の内をキッチリ言葉にする健気さを見せてくれる。

 中二病の取って付けたようなキャラ付けに落ちず、その一貫性に於いて彼女が放つ言葉はひたすらに素直で美しい。迷いつつも前に進んでいく点は漫画の主人公らしさもあり成長譚としても十分面白くなっている。

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そもそもなぜこのような構造になっているのか

 しかしなぜ読めなかった人たちも含め、『月曜日の友達』のセリフにこれほどまで過剰な反応をしてしまうのだろうか。

 それを考える上で一番大きな要因は、これまで挙げてきた『月曜日の友達』の仕組みにある。

 「オノマトペがない」「写真的表現」は裏を返せば「情報量が少ない」ということだ。一コマの情報の比重がどこに置かれているかによって、私たち読者が注目する点が変わってくる。どういうことか。

 漫画の情報量についてひとつ例を挙げてみよう。

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田中政志 著『ゴン』2巻第8話参照

 田中政志『ゴン』は圧倒的な画力と躍動感(効果線)で構成されており、セリフはおろかひとつの文字も出てこない。『ゴン』が一番読者に見てほしかったところに広大な大地と様々な生命の力強さがあり、そこに文字を登場させることは蛇足にしかならない。言葉、音の具体性という情報量を省くことによって、無限の想像力とスケールが呼応関係として漫画の中で息吹く。

 では『月曜日の友達』の一番比重が置かれている部分は?
そう、それがまさにセリフだ。

 「オノマトペ」「効果線」などが極力抑えられている構造により、読者は自然と「セリフ」の部分に視線と情報量の欲求が誘導される。

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視線と情報量の誘導:左から通常の漫画、『ゴン』、『月曜日の友達』の情報分量

  つまり『月曜日の友達』はセリフに過剰反応「してしまう」のではなく、過剰反応「するように」できている。

  そしてそれが作者が一番表現したかった部分でもある。

 

 作者が一番表現したかったもの

 これまでの青春漫画はテーマの根本に思春期があって、それを絵柄や技術で彼彼女たちの心の機微や葛藤を表現していた。『月曜日の友達』も多分に漏れず、軸に思春期があるのは間違いないが、この漫画が他の青春漫画と決定的に違うのはアプローチの仕方。『月曜日の友達』は思春期を「言葉」で表現しようとした唯一の青春漫画であることだ。

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 今までの青春漫画は、思春期において避けては通れない「言葉で言い表せない(まだ知らない)感情の表現部分」をキャラの表情や漫画の手法で、いってしまえば無責任に表現していて、文面通り、具体的に「言葉」では言及してこなかった。

 しかし本作は「言葉」に真正面から向き合っている。本作の構造自体がセリフに着目するように出来ているのも「言葉」を読ませるための作者の初めからの狙いであり、私たちが「中二病」「ポエム(笑)」と揶揄し、蔑ろにしてきた「言葉」の数々に今一度向かい合わせるための挑戦状とも捉えることができる。

   私たちが日常、スポーツ、恋愛、学校の出来事に多感に反応していた思春期の頃、心の中には膨大な「言葉」の海があったように思う。それらの殆どは当時「その気持ちを表現する言葉を知らない、言い表せないもの」だったが、本や、会話、音楽にその感情を表現してくれる言葉を見つけ、満たされたり助けられたリした経験が誰にでもあるのではないだろうか。

 『月曜日の友達』の素晴らしいところは、言い表せなかった頃の私たちが見た感じた感情を、水谷茜があえて発する情景や心象の「言葉」そのもので表現している点にある。

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 思春期を「言葉」で表現するということは難しい。思春期とは極個人的なものであるから、読者それぞれの心を動かしたいのならなおさらだ。特に「言葉」自体に興味を失った人たちに、再度向き合ってもらうのは並大抵のことではない。詩集ではカタすぎる。絵本では広すぎる。しかし漫画なら。漫画なら読めてしまうはずだ。

 思春期を言葉で表現した作品を、「ポエム(笑)」な現代の私たちに読ませる方法は、漫画以外にない。

 水谷茜の詩美溢れる「言葉」が、ぼんやりとした心象風景に近いあの頃の感情を淡く浮かび上がらせてくれるだとか、この際メンドクサイ話はいい。『月曜日の友達』の構造全てが「言葉」に向かっているようできているから、読者はただページを開いて水谷茜を追うだけでいい。

 思春期そのものが「言葉」で出来ているのだとしたら?その答えが『月曜日の友達』にはある。

 

感想

 まっすぐで美しい言葉は詩に近づく。

 少なくとも作者は本作でそう考えていたように感じる。思春期という誰もが通った時代。それを現在の私たちが「ポエム(笑)」と投げやりに扱うのは些か早計な気がする。それだけに『月曜日の友達』をまだ読んでない人、読んだが肌に合わなかった人にこそ、今回の仕組みを踏まえた上でまた読んでほしいと思う。

 繰り返しになるが、本作は数ある青春漫画のなか思春期を「言葉」で表現した唯一の作品だ。それだけでも十分楽しめるが、本作には超能力や月野透の謎、最終話の意味など一度読んだだけでは読み取れない伏線も多々存在する。次回はそれらの答えに言及する記事を近々書く予定(というか書いてる途中)なので、そちらも楽しんでいただけたらなと思っております。

書きました→

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*1:余談だが小学館の漫画のセリフには句読点が付いている