頭んなかで、楽しんだ。

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【感想】『我らコンタクティ』にみる光と感情の関係性

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 おもしろい。

 めちゃんこおもしろい。

 マジどちゃくそおもしろい。

 

と感じたとき、もし人に勧めるなら、どうすればうまく伝えられるだろう、と思う。どんな言葉で、どんな表現でこの気持ちを伝えればいいんだろうと。

 そうして考えるうちに「自分が面白いと感じているものって、はたして何だろ?」と自問する。感覚的なものを言語化する。その難しさに苦しみ、悩み、ついには諦めて感性に降伏する。小学校の読書感想文みたいな気分。いいじゃないか、感情だけで終わらせたって。と思ったりしてしまう。

  ただ「この作品の面白さだけはわかる」ときが極稀にある。

正確にはもっと弱々しい気付きのような程度なのだが、だからこそ一度、こうして自分でも確かめるようにまとめていきたい。

 

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『我らコンタクティ』。

傑作である。

 

 「カナエ」の毒可愛さや、「かずき」の素っ頓狂の中に秘めた熱意、テンポの良いストーリー、青春も舌を巻くドラマ性。拙さをも味方にしたそのどれもがこの作品を鮮やかに彩っているのは確かだ。

  しかし『我らコンタクティ』の本当の素晴らしさは「光の使い方」にある。

  漫画において光は陰影やスクリーントーンで表現されるが、そういった技術的な方面ではなく、光をどのように扱いどのような意味をもたらすのか、その配置がすこぶる秀悦なのだ。 

 

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 コンタクティとは"宇宙人から伝達接触された(と称する)人"という意味がある。

 だが全編を通して『我らコンタクティ』に宇宙人はおろか、見たはずのUFOも登場しない。カナエとかずきの記憶にも降り注ぐ光の描写しかされていない。二人が思い出すのはUFOの大きさや形ではなく、まぶしかったという感受だけだ。

 記憶とは往々にしてあいまいなものである。時間や場所、その時の恰好や周りにいた人を正確に憶えていることは少ない。ただ、感じたことはやけに鮮明な場合がある。「~で食べたカレーが美味しかった」「~のときはマジで死ぬかと思った」「~したのはめちゃくちゃ笑った」。

 人間が電気信号で感情を記録しているのであれば、それらはまさに閃光のような強烈な「輝き」に等しい*1。「輝き」はどこまでも個人的なもので、他人と完全に享受するのは不可能だ。お前に俺の気持ちがわかるかよというそれに近い。似たような感情を擦り合わせることはできるだろう。しかし、それはあくまで類似品で、完璧な形の共有はできない。だからこそ「輝き」は愛しく、不変で、自分の大切なものに成り得る。『我らコンタクティ』はその「輝き」を「光の演出」でもって呼び起こし、結び合わせることに成功しているのだ。

 

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  面白さのカケラも無い会社の飲み会から抜け出したシーン。車のライト(光の演出)を見てきれいだなと感じる。たったそれだけで、会社を辞めようと思う(輝き)のと同時にかずきとの出会いが起こる。 

 物語のいたるところで「輝き」と「光の演出」のコントラストが無数に散りばめられていて、読み手を気づかぬところで揺さぶり続けている。これが実に上手い。

 一話の終盤では同じ形式でさらに内面のところを縒り合せようとしていく。

 

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 一人で黙々とロケット開発に勤しむかずきを利用して、金をせしめようと画策するカナエは、ロケット開発の理由が「UFOに映画を見せるため」ということを知り大爆笑する。ちょっと抜けているかずきの、どこまでもまっすぐで純粋な言葉を聞いて、カナエは不満の絶えない日常の中で忘れていた昔のことを思い出す。

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 かずきが公園の話をしている途中に、すでにカナエの記憶はよみがえっている。まばゆいほどの光とUFOという非日常的な衝撃。二人だけがハッキリと目と頭に焼き付いているその気持ちの昂ぶりを、シナプスは信号を繰り返し克明に浮上させていく。 そうして初めて、今まで小馬鹿にしていたかずきの言動や熱意を理解できるようになる。

 

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 飛び散る閃光を見つめながらあの時の「輝き」が体を満たしていく。けたたましい金属音と火花、そして、今とは違う、明るく、やんちゃで、生き生きとしていた昔の自分と重ねながら。

 「まぶしかったね」

 互いの心の中にある「輝き」に、同じ「光」を見つめながら等しく想いを馳せる。そして本来、享受できないはずの「輝き」が、言葉を交わさずとも共有したことがわかるシーン。これが第1話である。

 

 物語を通して「輝き」と「光の演出」は姿を変え幾度も登場する。二話では炎の光だけが、安らぐ心をもたらす螺旋の懊悩。つづくスパーク、太陽、灯台、ロケット。気持ちがあふれ出したとき、同じ目標を見つめるとき、わかりあえたような気がしたとき、必ず傍らに「輝き」と「光の演出」が存在する。

 人間は完璧に分かり合うことはできない。例えば、屋上から今にも飛び降りそうな少女に甘いケーキやお菓子を渡したとしても何も変わらないだろう。最愛の両親を亡くし打ちひしがれる男の気持ちをわかるものもいない。しかし、自分とは全く接点のないものなのに、例えば曲を、歌を聴いたときだけは、全身が震え、涙が溢れだすような、あの一片の詩だけで、誰にも理解されるはずがない心の奥底を鷲掴みにされるような。

 そんな、もしかしたら他人同士でも分かり合えるのかもしれないと、思わせてくれるような想いが、この作品では「輝き」と「光の演出」の関係性でもってぼんやりと、けれど確実に登場人物たちを導いていく。 

 そういった気持ちを知ってか知らずかカナエはどこまでも伸びやかにロケット開発を手伝っていくのだが、

 

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 この表情たるや。ここも本作の魅力、というかカナエの顔の豊かさを追うだけでも十二分な面白さを得られるだろう。

 『我らコンタクティ』。森田るい。次回作が楽しみである。それまでみんな踊って待とう。ヒュ~イ~ヒュ~イ~。

 

 

  

我らコンタクティ (アフタヌーンコミックス)

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*1:フラッシュバルブ記憶

【考察】『ヨルシカ - 言って。』の女の子は踊り、タコはこちらを見ている。

『ヨルシカ』

 ボカロPの"n-buna(ナブナ)"が、ライブでボーカルを務めていた"suis(スイ)"と結成したバンド。名前の由来は別の曲『雲と幽霊』の歌詞"夜しか"から。

 


ヨルシカ - 言って。(Music Video) / Yorushika - "Say to"

 

 清涼な歌声とギターリフが小気味良い。サラッとしてしつこくなく、何度繰り返しても飽きないフレンチサラダ的サウンド

 

 それはいいとして、さてこのPV。

 真っ白い女の子が不思議な踊りを披露し、ボロボロの建物を駆け巡り、下水から耳の長い影が顔を出したかと思えば、挙句の果てにタコまで現れる。意味がわからない。

 歌詞と雰囲気で『起きた出来事』はなんとなくわかるけれど、PVに映る現象とどうリンクするのだろう。

 

  1. なぜ彼女は意味不明な踊りをしてるのか?
  2. この場所の意味
  3. 影とタコの正体

 

 この3つで楽しんでいこうと思う。 

 まず彼女に何が起きたのか。以下歌詞より 

あのね、私実はわかってるの

もう君が逝ったこと

 「君」が何も言わず死を選び、「君」がもうこの世にはいないことを悔やんでいる「私」。彼女は「君」の死の際(きわ)を悟ることができず、なんでもっと言ってくれなかったのかと半ば脅迫的に君を責める。「君が逝った」ことにより彼女の身に精神的負荷がかかることになった。

 「君」が死んだ直接の原因は飛び降り自殺。曲の冒頭の落下音と、息を止めるシーンがその暗示。真正面から目を横にする動きは、遺影から目をそらす仕草。2度の拍手は神道の葬儀のそれかと思ったが一般的には音を鳴らさない忍手なので、わかりやすくするためなのかも。チラッと写る立方体は生命から物体と化した遺体の暗喩。

 曲の始まりわずか3秒で『出来事』を全部ぶっこんできた剛腕。

 

 歌詞を見ると、ほとんどが「君」への自白であることから、彼女はもう一度君に会って話したかったのだろう。飛び降りる前の。空にいってしまった後の。故に彼女は高い場所へ足を運ぶ。それが『2.この場所の意味』である。

 

 PVの彼女を通してよく見ると、実写と一緒に映るときだけ体の一部に影がかかる。

彼女の上述の行動が自身を蝕み、ストレスが内面を侵食していく。影は精神的負荷であり、言葉にできるとき(背景が青のとき)、辛うじて影の存在は弱くなる。

 『1.なぜ彼女は意味不明な踊りをしてるのか?

 フラッシュバックする君との思い出を振り返りながら踊るとき、影は乖離し、彼女は幾らかの精神を安定させることができる。意味不明な踊りこそ、ここに彼女がいられる方法なのだ。

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『3.影とタコの正体』の影の具体的な姿は映像のちょうど1:00に映っている。

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こやつが彼女の心を締め付けている元凶。キュゥべえ

 

 盲目的に盲動的に妄想的に生きて

衝動的な焦燥的な消極的なままじゃ駄目だったんだ

 

 その結果がこれ。

 自殺は残された者へ呪いにも似た異物を残していく。それは形を変え、姿を変え、何も言わず忍び寄る。悪い夢。まるで悪夢のようなPVだ。

 それに拍車をかける存在がいる。タコである。

 

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 2:48にエレベーター内から手招き、もとい引きずり込まんとする仕草でニーチェよろしくこちらを覗いている。もちろんこのタコも影の側で、彼女を苦しめる呪術のそれ。

 なぜなら『タコの正体』は「君」が飛び降りた後の死体だからだ。

 ありえない方向に曲がった四肢。虚ろな目。飛び散った臓物。ぶちまけた脳漿と大量の血。そのシルエットこそがタコの正体である。上述の影よりも大きく、具体的な形をもち、巨大で悍ましいタコは死体からの化身である所以だろう。

 

 しかしこの先のシーン。

 彼女はタコの隣で寝転がり、空を見上げる。どんなに蝕まれようとも「君」の気持ちを推し量るように、確かめるように、死体(があったかもしれない)のそばで寄り添う。

 もっと、もっと、もっと、ちゃんと言ってほしくて。

 「君」への願いが彼女の心の拠り所であり、人生最後の日まで問い続けることが、彼女の生きていく術なのかもしれない。言葉と向き合う最後のカットのみ、彼女に影がかかっていないのが、その未来の暗示だろう。

 

解釈

  1. なぜ彼女は意味不明な踊りをしているのか? → 精神のバランスをとるため
  2. この場所の意味 → 「君」を確かめる方法に近い場所
  3. 影とタコの正体 → 死んだ「君」が齎す精神的負荷

 

 

 

 

 ……、

 ここまで楽しんでおいてあれだが、もう一つ別の考察を。

 それは『PVの白い女の子は「私」ではない』説。

 

 今まで散々説明してきた文の中で僕があえて「彼女」と表記した人物。PVの真っ白い女の子。それこそが冒頭、飛び降り自殺した「君」だ。そして背景が青のときの女の子が現実で生きている「私」である。

 終始女の子は無表情で、空白で、踊りだしては走馬燈を見て、気がおかしくなっている。3:17では天使の輪を模した外灯で、すでに死んでいることが提示されているが、ここで注目したいのは、その前のシーンから。

 

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「私」も「君」を追って死を選んだのだ。

 

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 青(生きている世界)と黒(死んでいる世界)が入り混じる薄暗い背景のなか、光る輝きだけが二人を照らしている。

きっと、人生最後の日を前に思うのだろう

全部、全部言い足りなくて惜しいけど

 

そして人生最後の日、君が見えるのなら

きっと、人生最後の日も愛をうたうのだろう

全部、全部無駄じゃなかったって言うから

 

 

夏草が邪魔をする

夏草が邪魔をする