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【考察】『Kanon問題』とは何だったのか?その問いと答え方

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 『Kanon問題』を知っているだろうか?

 

 99年keyから発売されたビジュアルゲーム『Kanon』は、そのたぐい稀なるストーリーと心理描写で10万本以上の売り上げた泣きゲーの金字塔だ。そんな大ヒットを背景に様々なファンアートが描かれ、物語を深く掘り下げたサイトも数多く存在した。その中で生まれたのが『Kanon問題』である。たぶん*1

 さて『Kanon問題』。

 初出が曖昧なら定義も曖昧のようで、明確にこれだ!という記載が実はどこにもない。多数の方が提示している案を御借りすると、Kanon問題』とは、「誰かが救われると誰かが救われない問題」らしい。

 Kanonでは複数の女性キャラが各々悩みを抱えて存在している。それらは主人公の祐一と月宮あゆの「奇跡」によって基本的に解決する。だがその「奇跡」は一度しか起きない。プレイヤーが選んだキャラだけに幸せが訪れ(幸福)、選ばれなかったキャラの悩みは解決せず幸せは訪れない(不幸)。この構造に問題があるのではないかという問いかけだ。なぜこれだけのことが一時的ではあれ爆発的に話題になったのか気になったので今回触れてみた。

 

 この記事のポイント

  • Kanon問題』を再確認して、
  •   創作物との関係性を知り、
  • 「描かれていない部分」をどう考えるか。

 

 ここでは、これから先の仕組みをわかりやすく理解していくために、まずはじめに「誰かが救われると誰かが救われない問題」を「現象」として捉え、『Kanon問題』の一体何が問題なのか思考の流れの図とともに再確認していきたいと思う。 

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人間性が『Kanon現象』を複雑にする

 

 マイケル・サンデル氏が引用して有名になったらしい「トロッコ問題」。この思考実験について、少しだけ考えてみてほしい。

「暴走する路面電車の前方に5人の作業員がいる。このままいくと電車は5人をひき殺してしまう。一方、電車の進路を変えて退避線に入れば、その先にいる1人の人間をひき殺すだけで済む。どうすべきか?」(略)※(電車は止められず、線路上の人たちは逃げられない状況とする)*2

 

 

 考え得る簡単な答えを「1,何もしない」「2,進路を変える」とした場合、あなたはどちらを選んだだろうか。1を選べば5人の作業員が、2を選べば1人の人間がいずれにせよ轢死する。誰かが救われると誰かが救われない。これが『Kanon現象』の一端だ。

 そして私たちは気づくのである。どちらを選んでも確実に残る「後味の悪さ」に。

 

 『Kanon現象』はただそうであるだけなのに、私たちは当事者、プレイヤーとして関わると人間としての倫理観や道徳心を顕在化してしまう。いわゆる「良心が痛む」のだ。トロッコ問題において、すぐ回答を出すのに躊躇したのではないだろうか?1でも2でもなく「3」のやり方で誰も死なない方法を考えなかっただろうか?

 Kanonを遊ぶプレイヤーの構図はそれらとよく似ている。「奇跡」が起きなかったヒロインがいたたまれない、傷つかず幸せになってほしい、という想いを私たちに自然と備わっている「人間性」が望んでしまうのである。ゲームならば、誰かが不幸のまま終わったりせず、皆が幸せになるようなハッピーエンドを欲してしまうのである。このような想像力人間性に基づくものだといえるだろう。

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単純な疑問

 私たちは『Kanon現象』(誰かが救われると誰かが救われない)を本能的、人間性的に、そうあってほしくないと願っていることがわかった。

しかし、ここで疑問が生まれる。

 

はたして本当に誰かを救えば誰かは救われないのか?

 

 上記のトロッコ問題に関してはハッキリと選ばれないほうは「死ぬ(死んだ)」と記されている。これは確実に救われなかったといえる。

 ではKanonはどうだろうか?

 Kanonをプレイしていない方もいるので結論から言うと、選ばれなかったヒロインに対してその後「死んだ」「不幸になった」という断定的な表現はない。ヒロインAを助けたからといってヒロインBCDが救われないとは確定されていないのだ。もう少し掘り下げてみよう。

 Kanonには月宮あゆの「奇跡」が存在する。「奇跡」は3回あり、残りの1回をそれぞれのルートで使うことになる。もう一度会いたいと願った子と再会できるようにしたり、中には残された時間が僅かな子や交通事故に逢った人を救う等、生死に関わる出来事も少なくない。もちろんそれらは各々のルートに入れば助けることができるが、「奇跡」を使われなかったからといってその後、死や不幸の描写があるかというとそんなことは一切ない。あくまで上記で述べた人間性によって不幸を想像してしまうだけなのだ。

 繰り返しになるが、選ばれなかったヒロインが救われなかったという具体的な明記はどこにもされていない。ならば、もしかしたら「奇跡」でなくともなんらかの形で救われる出来事があるかもしれないと考えることだってできる。救われないことが決まってないのであれば救われる可能性も大いにありえると。

 したがって『Kanon現象』はKanonの世界において「ちょっと違うんじゃないの?」ということになってくる。 

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 人間性(主観)から疑問(客観)そして俯瞰(メタ認知

 今までの流れを再確認しよう。

  • 誰かが救われると誰かが救われない現象がある(Kanon現象)
  • それは悲しい。(人間性
  • ちょっと待って、救われないとは決まってないのでは?(疑問)

 

 『Kanon現象』を人間性が否定し、疑問が生まれた流れ。

 さて、ここから思考のループに陥るような新たな悩みが重なる。それは「そうかもしれないしそうじゃないかもしれない」問題だ。

 

 ゲーム内に確定的な救済の有無が記されていない以上、可能性の視点から「救われるかもしれない」と「救われないかもしれない」は同時に存在することになる。着目すべきはKanonは一定のルートに入ると、他のヒロインルートの描写が一切なくなる点だ。この点に上記の断定的表現がないと言える理由がある。私たちは選ばれなかった彼女たちに何が起きたのかルートによって全くわからない立場に立たされる。決まってるかもしれないし決まってないかもしれない。そう、わからないのだ。この禅問答にどう答えを出せば良いのだろうか。

 ここで一度、私たち読者と創作物の関係性をみてみよう。

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 便宜上、「物語性を含む」創作物とさせていただいた。

 <作者>が<創作物>を司り、それを<読者>が見る構図。上述した「わからない」「そうかもしれないしそうじゃないかもしれない」と呼ばれている部分を<描かれていない部分>とした。さて、この図を見る限り、読者が知り得ない部分への悩みの解答はとてもシンプルだ。

 作者が答えを描けばいい(作者に訊けばいい)。

 「病床にて一人きりで死んだ」「生きて今は幸せに暮らしている」と。作者が「描かれていない部分」に手を加える(創作物の部分が大きくなる)だけでこの問題は簡単に解決する。これはKanonのみならず世界中の数多の作品、創作物にも等しく言える。<描かれていない部分>は作者のみが介入できるのであって、読者は蚊帳の外。答えを宙に浮かせられた私たちが思い悩むことは無意味といえる。はいおしまい。解散。

 

 ………と得心できたら『Kanon問題』の話はここまで大きくならなかっただろう。実際散見する多くの記事は、その<描かれていない部分>の解釈の壁に直面し「結局作者が描いてないんじゃわからないし、どうしようもないよね」 と締めくくられている。

 本当に読者は私たちは、創作物に、『Kanon現象』に対して何かのアプローチはできないのだろうか?

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Kanon問題』とは

 『Kanon現象』の解決策が作者の介入だけだとしたら。

 例えば、作者がもう推敲しないと断言したら。もし、作者が亡くなって答えることができなくなってしまったらどうだろう。Kanonのゲーム中で事故にあったキャラは?奇跡が起きなかったヒロインは?その先の未来は?創作物に対する私たちの人間性はどこに向かえばいいのだろうか?読者は創作物に対してどこまでも受動的であるならばその答えは「考えても仕方ない」。しかし、私たちがひとつだけ創作物に関与できる方法がある。

 それは「解釈」だ。

 

 つまりKanon問題』とは「描かれていない部分をどう解釈するか問題」に他ならない。

 

 作者が答えを出さないのであれば、私たちができることは「考えること」だけだ。誰かが救われると誰かが救われない。そうかもしれないしそうじゃないかもしれない。そこだけに囚われると、言葉遊びの罠に嵌っていつまでも抜け出せない。考えるべきはそれらをどう解釈するかである。

 再度ゲームKanonについて考えてみよう。序盤でヒロインの一人、美坂栞(みさかしおり)と出会い、実は彼女はなんらかの病気で次の誕生日まで生きられないかもしれないことが終盤に判明する。そこで「奇跡」が起き、栞は無事誕生日を迎えられ、主人公と共に学校生活を送る。ではもし「奇跡」が起きなかった場合は?おそらく栞は誕生日を迎えられず病により命を落とすだろう。しかしそれはどこまでも憶測の域を出ない。「おそらく」「だろう」だけ。では私たちは栞の描かれていない部分をどう考え、どう感じればいいのか。

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 実はこの『Kanon問題』は作者と創作物の方向から様々な解決案が模索されてきた。

 その一つが世界線パラレルワールドの概念だ。

 大ヒット作『STEINS;GATEシュタインズゲート)』では椎名まゆりが死ぬα世界線から、主人公の岡部倫太郎は抜け出し、β世界線で彼女を死から救う。世界線という設定により彼女が救われる状況へ着地することに成功した。ミステリー小説『七回死んだ男』などはタイムリープによって、犯人の特定と合わせて自身の死を回避しようと翻弄する。しかしどちらも作者が描いた、そして描かれた部分を辿ってきただけに過ぎず、根本的な<描かれていない部分>の解決には至っていない。 

 ともあれ『Kanon問題』が「描かれていない部分をどう解釈するか問題」というのがわかった。

 

 ではここから先は『Kanon問題』解決への提案、つまり<描かれていない部分>をどう考えるかという点で、ふたつの解釈を提示してみたいと思う。

 

 「予期」と「作者の死」

ひとつめは「予期」だ。 

「予期」とはーーー前もって推測・期待・覚悟すること。

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あずまきよひこ著『よつばと!』14巻124Pより引用

 注目するのは、よつばがなぞなぞをだした後のセリフの無い横長コマだ。一見何気ないが、よつばのアップのコマの次に、少し引いて周りの状況と乗客の表情を大きめのコマに描くことによって、読者は「他の人たちもよつばのなぞなぞを考えている」と「予期」することができる。その後、とーちゃんが答え、正解のオチを言うよつばと続くわけだが、そのコマの客の顔でも「なんじゃそりゃい!」と心のツッコミがセリフもないのに感じることができる。更に言えば4コマ目、手前二人の目線が少し上を向いている。物事を考える時、人は上を向くことが多いのを私たちは予め知っていて、それを汲み取ることで「なぞなぞを考えているという予期」を、より強固なものにしている。

 もう一つの例を。

 バングラデシュは厳しい場所だ。

 ダカの支社には、私の部下になる日本人スタッフが一人先遣されていた。高野という男で、私よりも四半期下になる。福々しい顔でどこか頼りないが、歴戦の営業マンである証に全身真っ黒に日焼けしている。出身を聞けば、新潟の燕市だと言った。彼はダカの空港で私を出迎えてくれた。---米澤穂信著『満願』万灯より

  どこにも主人公が飛行機に搭乗した描写はない。しかし、バングラデシュに対する前振りと「空港で私を出迎えてくれた。」ことで、「私」は飛行機に乗ってきたのだなとわかる。

 どちらの例も具体的な記述無しに、物事がどう起きたのか知ることができたのは、読者が<描かれていない部分>を、描かれていないにも関わらずそれを「予期」し、補間したからだ。重ねて読者は物語の背景や心理描写、自分の人生経験や知識から、実は自身が<描かれていない部分>の一端の埋め合わせを自然と行っていることになる。

 それは一般的に読解力と呼ばれたりするが、例えば「気がつくと薄暗い雲が広がっていた…」の文から「ああ雨が降りそうなんだな」という人と「雨雲や雨の描写は良くない出来事が起こる前兆でよく使う手法。これから不吉なことが起こるんだな」という人がいるように、経験や知識で解釈が変化することに注目したい。一時期ネットで「俺、帰ったら結婚するんだ」が「死ぬこと」と同一性を持ち、フラグという言葉で親しまれたが、これも一種の「予期」である。

Kanon問題』に「予期」 をもって答えるとするならば、

自由に解釈してもいいとなる。

 創作物を通して読者が仮説を立て、「予期」で強度のあるものにし、「説得力のある(納得のできる)考察」にしてもいい。たとえそれは作者が意図的に配置したニュアンスだとしても、読者のすべての感受性を確定させているわけではない。読者は読者の自由でもって受け止めてもいい。なぜならば私たちは<描かれていない部分>を描けることがわかったからだ。

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ふたつめ。ロラン・バルトが提唱する「作者の死」の考え方。

 「自由に解釈してしまったら、作者の伝えたかったことがわからないままなのでは?」という問いに対して、私たちはどう考えればいいだろうか。

   ぞんざいな物言いに聞こえるかもしれないが、それは前述してきたとおり、「知りたければ作者に訊けばいい(作者に描いてもらえばいい)」という以外にない。読者は創作物から作者を想像するのではなく、創作物そのものから想像する。創作物を論じているのであって作者を論じているわけではないからだ。

ここで同著の『物語の構造分析』を引用する。

あるテクストにある「作者」をあてがうことは、そのテクストに歯止めをかけることであり、ある記号内容を与えることであり、エクリチュールを閉ざすことである。---ロラン・バルト著『物語の構造分析』作者の死より p.87

 それらは学生の頃の読書感想文や国語のテストに似ている。「作者はここで何を言いたかったのか」「作者の気持ちになって」という形式的な教え方が、作品と作者を同一に考えることを身につけさせてしまい、結果、ただの「答え合わせ」で終わってしまっていた。それでは言葉自体が放つ可能性や趣*3に蓋をしているだけだとバルトは警鐘を鳴らす。

  私たちが創作物に触れるのは、作者の人となりを解き明かす為ではなく、新しい知識や美的体験を得たい為であろう。ゲームのみならず創作物は、ただあったとしても「何も起きない」。見て、聞いて、触れて、感じることで初めて「描かれていない部分」が生まれる。つまり「描かれていない部分」とは私たちが感じたり、考えることで存在するのだ。私たちは「答え合わせ」をしたいのではない。創作物から浮かび上がる「その先」を感じたいはずだ。上記で示した関係性でみれば読者は受動的であるが、実はどこまでも能動的であることがこれで判明する。そしてそれは作者の介入が邪魔になるということを意味する。なぜか?

 私たちが創作物に対して能動的、つまり自由であるなら、作者自身が入り込むとその自由さと可能性を殺すことになるからだ。したがって創作物は「作者の死」によって完成し解き放たれる。

 『Kanon問題』を「作者の死」をもって答えるとするならば、

自由に解釈してもいいとなる。

 「作者の死」を使って創作物を考えると、自由すぎるが故に歯止めがかからないこともあるが、それに有り余る程の創作物の広大さを垣間見ることできる。つまり作品に対する『Kanon問題』は、答えという単一的な視点ではなく、「考え続ける(そして解釈する)」ことが健全であると捉えられるのだ。

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  結果的に「予期」「作者の死」どちらも『Kanon問題』は「自由に解釈してもいい」という一定の答えがここでは出た。そのほかにも『Kanon問題』は様々な方向からアプローチができそうだが今回はこれまで。

まとめ

  1. Kanon問題』が生まれ、かつ複雑化した原因は人間性
  2. Kanon問題』とは「描かれていない部分をどう解釈するか問題」
  3. 答えは「自由に解釈してもいい」
  4. 作者=創作物ならばただの「答え合わせ」
  5. 創作物は読者(私たち)のもの

感想

 作者が創作物を提示してくれたのなら、私たちはそれを自由に楽しむ権利がある。そしてその「描かれていない部分」の存在があるからこそ、「解釈」によって考察本ができたり、二次創作、同人など自由さが生まれ、私たちはより創作物を柔軟に楽しむができる。今回取り上げた『Kanon問題』を、自分は「人間性」から考察し楽しませてもらったが、これがKanonの世界から考察すると全く姿を変えるのも魅力のひとつだろう。見て聞いて消化するだけでなく「考える」までを娯楽として昇華できる作品を、これからも触れていきたいと思う。

 なお今記事を書くにあたってスマホ版でKanonをプレイ(PC PS2済)したが、フォントの大きさやウインドウの場所変更、縦横対応、オートセーブなどユーザーに至れり尽くせりな仕様になってるので、是非遊んでみてほしい。

 

Kanon メモリアルエディション 全年齢対象版

Kanon メモリアルエディション 全年齢対象版

 

 

物語の構造分析

物語の構造分析

 

 

*1:というのもこの言葉の出自が見当たらず、かろうじてcrow_henmiさんが作ったのではとの記事を見かけたのですが本人すら定かではないようで結局は曖昧のままです。

*2:

5人を助けるために1人を殺すことは許されるのか? ”トロッコ問題”で考える「正義」とは? | ダ・ヴィンチニュース

*3:シニフィアンシニフィエ

好きな漫画には好きなセリフがあった

 好きな漫画には好きなキャラがいる。

 好きなキャラには好きなセリフがある。

 というわけで第1回『漫画の好きなセリフ発表会』を開催します。なお年代を広めに選出しています。

 

 

純潔のマリア石川雅之

オススメ度☆☆☆☆☆(全3巻で読みやすい 王道 台詞回し)

純潔度☆☆☆★★(周りのハレンチさ) 

 

「その想い全て 何もかもなくなっちゃったじゃない!」

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  『もやしもん』繋がりで購入。百年戦争を舞台に、絶大な魔力を用いて戦いを終わらせようとする魔女マリアとそれを咎める天使の物語。マリアかわいい。

 天使が戦争を静観し、魔女が戦争を制止する構図が面白い。作中、何度か互いの言い分がぶつかり合うわけだが圧倒的な力量の差でもってマリアは抑制される。マリアはそれでも自分ができる範囲で争いを止めようと、監視役のエゼキエル(上のコマの女の子)をも無視して人々の力になろうとする。

 マリアの言動に感化されつつあったエゼキエルは、天使の役目を忘れまいと、マリアに助けを求める矢文を全て燃やしてしまう。それに数刻後気づいたマリアがエゼキエルに泣きながら訴えたセリフがこれだ。救えたかもしれない命を救えなかった後悔。祈りを無視し、ただ見守るだけで何もしない天使たちへの苛立ち。何の罪もない人間が殺され続ける絶望感。これまでコミカルに描かれたマリアの振る舞いと、感情を惜しげもなく吐露する相対的なこのシーンには胸に詰まされるものがあった。マリア泣くな。汝はかわいい。

 

 

『春が来た』

オススメ度☆☆☆☆★(劇画調 紙一重の滑稽さ)

諸行無常度☆☆☆☆☆(現世という地獄)

 

「夜を焼け~~ッ!! 朝を殺せ~~ッ」

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 大切な人は無残に死に、人々の温情も、慈悲も、感じぬほどに乾ききり。憐憫はあれど身も蓋も仏も無し。太郎兵衛と次郎兵衛は残りの人生を、このくそったれな世界を作った仏にケンカをふっかけながら練り歩く。世を恨み憎み天に向かって拳をあげながら叫ぶ。業には業ぶつけるんだよ!宜しく現世の地獄を生きながらして見た二人に怖いもの無し。

 重くなりそうな話も、小島剛夕先生のタッチによって描かれると、人間のどうしようもない滑稽さが浮かび上がり自然と読後感は気持ちがいい。それは太郎兵衛と次郎兵衛の、どんなに絶望的であっても腹は減り、色香に惑わされたりする人間臭さが拍車をかけてもいるだろう。小島剛夕先生を知らない人は彼の絵の妙を味わえる作品なので本作か『首切り朝』『乾いて候』を是非。絵柄的には小島の柔、平田(弘史)の剛といったところか。

 

 

め組の大吾曽田正人

 オススメ度☆☆☆★★(主人公の圧倒的な魅力 消防漫画 後半の尻窄み)

一気読み度☆☆☆☆☆(話の引き込みの巧さ 緊張感 章ごとの構成力) 

 

「もう少しだけ ここに…残ろう…なっ?」

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 曽田正人先生『め組の大吾』屈指の名シーン。大吾(だいご)はリスク度外視の破茶滅茶な暴れ馬っぷりで消防士らしからぬ超異端児だが、何故か現場(警察や消防では「げんじょう」と読む)の死者はゼロであった。そこに同僚たちは大吾のフィジカルだけではなく、直感や経験では語れないシックスセンス的な能力を感じるようになる。そんな大吾自身は現場こそが自分の居場所なのではないかと、火消しであると同時に「内心では火事を望んでいる」という矛盾に懊悩する。

 同じ「匂い」を嗅ぎ取った上司で切れ者の荒(あら)は真意を確かめるべく半強制的に大吾を現場に同行させる。酷く退屈で当たり障りのない日常。淡々と過ぎていく毎日。しかし現場は違う。燃え盛る炎と煙の中、生と死の境をひしひしと感じる極限の緊張感、容赦無く襲い掛かる業火との対峙の果てに、自分が生きている充実感を味わうことができる「究極のアトラクション」。荒は外れてしまったネジを大吾に突きつけることで、大吾の言動をあわよくば楽しもうとさえした。

  だが荒の画策は失敗に終わる。アトラクションのスリルも生の充実感も、生きてこそなのだ。死んでしまっては意味がない。命あってこそ。その線引きは荒も重々承知。しかし大吾は違った。退避が数秒遅れれば死の状況下で放ったのがこのセリフである。

 大吾が常軌を逸したと、当時読んでいた自分はぶったまげた。火事の中が心地良いと思う変態、人が人ならざる者に変わる瞬間を見たと興奮した。

 正直この後の話は悪い意味で裏切られたので、荒とのカラミが個人的にこの漫画のピークではあるのだが。

 

 

『カリクラ』華倫変

オススメ度☆☆★★★(オススメしたいのかしたくないのかわからない)

ガロ度☆☆☆☆☆(知らずしてアングラ語るなかれ)

 

そしてまたもとどおりになった

また もとどおりになって

もとどおりの生活を続けるだけだった

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  華倫変の作品を見たのは、確かヤングマガジンで賞を取ったか何かで掲載されていたのが初だったと思う。女の子が売春をしていて、超ハードプレイされたにも関わらず、普段と変わらない表情で飄々と会話している描写がやけに記憶に残った。

 華倫変のキャラは人身売買されていたり、人前でヘロインをやったり、特殊な性癖を持っていたりと、だいたい(私たちにとって)非日常な物事を抱えている。しかし誰かと会話しているときは殆どが淡々としている場合が多い。そうすることが自我のバランスを保つ処世術なのかもしれないし、非日常すらも日常の連続性であり特に気に留めるものではないのかもしれない。いずれにせよ、彼彼女はどうあがいても「日常」に戻ってくる。ただその日常は読者にとって何かベトベトしてこびり付くような印象を与える。

 

 

『魔女』五十嵐大介

 オススメ度☆☆☆☆★(NOT万人受け)

コトバ度☆☆☆☆☆(どのセリフも聞き逃さないよう注意)

 

「あんたには経験が足りないからよ。

"体験"と"言葉"は同じ量ずつないと、心のバランスがとれないのよ。」

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 初めて読んだときから、自分の人生の中でこれ以上の漫画は暫く出ないだろうと思って凡そ10年。未だにそれは破られていない(同着で『さくらの唄』)。

 魔女が齎す力と智慧を巡る人間の有象無象の物語。魔女が司る智慧とは何か、その末端を垣間見ることが出来る作品。

 漫画としては多分、読みづらい。描写に対して説明が淡白で、会話もぶっ飛んでたり突拍子が無かったりして(そういうふうに見える)終始読者を置き去りにしていく。総じて五十嵐大介の作品は漫画として読むと結構体力を使う。

 彼の漫画の触れ方は「挿絵の多い寓話、小説、詩集、童話」ではないかと思う。謂わゆるマンガ読みと呼ばれる人ではなく、普段漫画を読まないような人のほうがピタリと嵌ったりするだろう。同じ著者による『SARU』も併せて薦めたい。兎角とんでもなくとんでもない作品なので機会があればご一読を。

 

 

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